いつのまにか過ぎ去った桜の季節へ


8. 悲恋桜にて、「麻美」、そして僕と「咲哉」



僕らは大学へ続く坂を全力で吹かし、悲恋桜の前でバイクを止めた。樹齢二百年を越えるというその枝垂れ桜は、月夜の影にいっそう威容を際だたせている。

バイクの轟音が消えると、辺りは妙な静けさに包まれた。風が吹いているのに枝擦れの音さえ聞こえない。僕は悲恋桜の幹に近づいた。それは大人が何人、手を繋いで囲めるだろうかというほどの太さだ。

「せん・・・ぱい、」

「麻美っ、どこだ、」

声は、幹のちょうど反対側から聞こえてきた。それを聞いて、急いで回りこんだ僕が見たものは、悲恋桜の枝に抱え込まれるように捕えられた、麻美だった。気を失って、うわごとを言っているようだ。

「待ってろ、今助けてやるからな、」

僕はがむしゃらに樹の枝をちぎろうとしたけれど、それは固くてとても歯が立たなかった。体じゅうを枝に締め付けられているらしい麻美の顔は、とても苦しそうだった。

「おい、咲哉。何か切る道具はないか、」

その言葉に返事はなかった。待ってる余裕はない、道具になりそうなものを探しにゆこうとしたとき、僕の腕を後ろから掴むものがあった。

「何だ・・・うわっ、」

それは、悲恋桜の枝だった。枝はまるで生き物のように動き、僕の体を万力のような力でねじりあげ、麻美と一緒に捕えてしまった。

「ああ、やっぱり飲み込まれちゃったか」

眼下に、咲哉がいた。

「見てないで、助けてくれたらどうなんだ」

「僕はやれるだけのことはやったつもりだよ。桜の森の満開の下、このあと桜に飲み込まれるも、そこから逃がれ生きのびるも、全てはキミたち次第さ」

そう言われたとき、桜は確かに満開だった。僕と麻美を捕えた悲恋桜の枝の中、周りはもうみんな季節を外した桜の花で、それは幾重にも重なって、彼方まで続くように思えた。そこでは何かが狂っていた。花びらの中は無限という名の虚空で、二人はいまにもそれに飲み込まれそうだった。

「麻由が下に埋まっているんだ。だからそれは麻由の意思なのさ」

「どうして麻由が僕や麻美にこんなことをするんだ。おい、麻美、麻美、大丈夫かっ、」

「先、ぱい・・・姉、さん・・・痛い、あ、」

麻美はようやく意識を取り戻した。

「先輩、これは一体、」

「ここは大学の悲恋桜。今はともかく、ここから逃げるんだ」

「痛いっ・・・駄目です。抜けられそうにないです」

僕も麻美も片腕ずつしか自由にならなかった。それからずっともがき続けたけれど、枝の締める力が強くなるばかりで、とても抜け出せる見込みはない。そして、目の前に広がる桜の虚空も、どんどんこちらに迫ってくるようで、生き延びようという気持ちを挫けさせていた。

「誰か、助けてくれっ・・・と言っても、この辺には誰も住んでないか」

「この桜、私たちを殺すつもりなんですね」

「・・・ゴメン、麻美。君をこんなことに巻き込んでしまって。なんだか分からないけれど、多分、これは僕のせいなんだ」

「違います、私のせいなんです。だって、」

「そんなわけないよ。僕は、麻美のこと・・・嫌いじゃないけど、麻由のことを忘れてしまいそうな自分が許せなくて・・・それでどっちつかずなこと、してしまって。だから・・・ゴメン」

「・・・忘れません、」

「え、」

「・・・先輩は絶対、姉さんのことを忘れません」

そのとき、麻美が毅然として僕に告げた。

「だって、この世に消えてしまう想いなんてなくて、みんなただ積もってゆくもので、胸の奥に残ってあったかくなるものだから、それは悪いことや許せないことなんかには、ならないです。そんな風に、自分を責めないでも、それはとても優しいことだから、だからそれでも・・・わたし、」

そう一気に言って言葉が継げなくなったとき、彼女は、泣いていた。

その声は体じゅうの枝よりも、僕を締めつけるようだった。僕は麻由を・・・忘れない、絶対。けして忘れられないこと、それはとても、苦しいこと。だけど、『麻由』の思い出の向こう側の、遠い記憶が蘇える。それは、僕が見つけてしまわないよう、心の底に隠しておいた、大切な思い出だった。

授業前の雑談、

昼休みのバレーボール、

掃除当番の巡り合わせ。

自己紹介で肉じゃがが好きだと言っていたこと。

文化祭の劇で女役の僕を友達と笑っていたこと。

修学旅行の夜、先生の目を盗んで、みんな一緒に話していたこと。

でも、内気な憧れだったから、いつも少し離れて見ていたということ。

それはみんな、『麻由』じゃない、クラスメート以上にはなれなかったけれど、ほんとうの麻由の思い出だった。僕は『麻由』に引きずられ過ぎていたんだ。僕が本当にやらなくてはならないこと、それは。

「・・・麻美、君が麻由に言えなかった言葉を教えてくれないか、」

「言えなかった言葉、」

「そうだ」

「・・・先輩、姉さんが桜の精になったって、本当ですか。これもトモコさんに聞いたんです。おとぎ話みたいだけど、多分、ほんとうのことなんだって。それに、やっぱり私、ここに姉さんがいるような気がするんです、だから、」

麻美は、桜の虚空目がけて思いっきり叫んだ。

「姉さん、聞いてる。・・・私、絶対、先輩のこと渡さないんだから」

そして、僕を不器用に抱きしめた。

彼女にもまた、姉を失ったことで言えなかった言葉があった。そして、それは僕が聞くのを避けていた言葉。

僕が麻由のことを忘れるはずなんてなかったんだ。だからこそ、麻美を好きになるときにつきまとう、心の中のやましさと戦ってゆく覚悟が僕にはなかった。それで、悲恋桜の呪いは終わらなかった。僕の魂はずっと桜に捕らわれていたままで、『麻由』を忘れるんじゃないかってことを言い訳にし続けていたんだ。

そのとき僕たちを飲み込もうとした悲恋桜が、ほんとうに麻由の意志をもっていたのかどうかは分からない。けれども、少なくとも麻美にとって、それは麻由だった。

桜の造り出した虚空は裂け、気がつくと僕は悲恋桜の下に立っていた。樹を見上げても、花が咲いていたなんて形跡はどこにもない。僕の隣に立っていた麻美は、桜の枝の屋根の向こうに続いている星空を、ずっと遠くまで見つめているようだった。

しばらくして不意に、麻美がよろめいた。僕がささえると、そのまま眠りこんでしまったようになる。

「麻美、」

「疲れ切っているだけさ。一日寝たら元気になるよ」

どこからか咲哉が現れて、そう言った。

「なぁ、君は一体、何のために、こんなことをするんだ」

「前に言ったろう、僕は『麻由』と同じようなものなんだって。それに、君とも他人じゃない、そういうものなのさ」

「最後まで、よく分からないことを言うんだな」

・・・「最後」。自然に口をついて出たけれど、その時、それはもう、確かに最後だと思えた。

「昔っから謎めいたことが好きだったろう。それじゃ、さよなら・・・お兄さん」

Epilogue. へ


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