いつのまにか過ぎ去った桜の季節へ


4. お姉さんの部屋にて、「お姉さん」そして「麻美」



帰途についたのは、夜の十時を回った頃だった。 麻美はまだ待っているのだろうか。

屋敷の裏門をくぐり、二階へと続く鉄階段を昇る。薄暗い僕の部屋の玄関先に、彼女は、いない。もともとそれを期待していたわけだったけれど、今はちょっと違う気分でいたから、残念に思ってしまったのは僕の身勝手だ。

そのとき不意に、カツン、カツン、と階段を昇る音が聞こえてきた。

「麻美、」

「そんなに心配なんだったら、もっと早く帰ってきましょう」

「お姉さん・・・」

それは、僕の下宿の下の部屋に住んでいる、綺麗なお姉さんだった。

「こんばんは。私、これから仕事だから。帰るまでそのまま私の部屋好きに使っていいわよ」

「え、」

「あなたは部屋、片づけてなんかないでしょう、ほら早く私の部屋へ行って。彼女、待ってるわよ」

「麻美が、」

「それじゃ。まぁ、頑張りなさいよ」

お姉さんの言ったとおり、僕の部屋はとても女の子を入れられるような状態じゃなかった。そう、だから麻由が来たときもあわてて片づけたんだ。僕はお姉さんにお礼を言ってから、あわてて一階の部屋へ向かった。

お姉さんの部屋には甘い香りが漂っていて、慣れない僕を戸惑わせた。女性の部屋なんだな、と改めて意識すると、自分がどうも場違いなところにいるような気がしてくる。違和感をそのままにリビングに近づくと、床の大きなクッションの上に、身体をまっすぐに起こした麻美が座っていた。

「先輩・・・お誕生日おめでとうございます。・・・ダメですね、こんな顔で恥ずかしいです」

少し、目が腫れているようだった。

「ありがとう、麻美」

僕は麻美の向かいに腰を降ろし、笑顔で応えてみる。とりあえずは、しばらく冷たくしていたことを、許してもらわねばならなかった。

「今日は、ゴメン。ちょっと、いろいろ大変だったんだ」

「いいんです。それでも、帰って来てくださったから」

「ゴメン。・・・ちょっと、いつもこの季節には落ちつかない気分になるんだ」

こんな男を許してくれる麻美に対して、僕はまた嘘を重ねていた。

「そうなんですか、・・・私、もう完全に嫌われちゃったかと思ってました。三月に入ってから、先輩、私を避けてるみたいだったから」

「でも、もう大丈夫だから。この埋め合わせは必ずするよ」

「・・・それじゃあ、あの、一度、先輩のお部屋を見てみたいな」

「あ、今日はゴメン、部屋ぐちゃぐちゃだから、それはまた今度かならず。それでお姉さんにも、この部屋を使えって言われたんだし、」

「あの方って、先輩のお姉さんなんですか、」

「いや、ここの大家さんの姪にあたる人なんだよ。そのせいで、なにかとお世話になることが多いんだ。もしかしてお姉さんからはなにも聞いてなかった、」

「はい。でも、なんだか先輩のこと良く知ってるみたいだったから。あのお姉さん、とっても優しい人です。先輩の部屋の前で待ってた私を、すぐに自分の部屋に連れてってくれたんです。ねぇ、先輩ってもしかして、年上の女性が好きですか」

「いやっ・・・そんなことはないよ。ほんと」

「じゃあ、年下の女の子が好きなんですか」

「えっ、ってちょっと待ってよ。・・・イジワルだね、」

僕は笑った。麻美の前で笑ったのは、久しぶりのような気がする。

「・・・良かった、いつもの先輩ですね」

「もう、大丈夫だって言っただろう」

「あ、ケーキあるんですよ。食べませんか」

「そういえば、何も食べてなかったなぁ」

「健康に悪いですよ。どこかに食べに出たほうがいいですか」

「いや、そんなにおなかは空いてないから、ケーキでちょうどいいと思うよ」

冷蔵庫から出したケーキは、手づくりらしかった。お茶を入れている麻美の後ろ姿は、とても嬉しそうに見える。

「それじゃあ、あらためて、ハッピーバースデイ、先輩」




「あ、口のここんところ、チョコついてますよ、」

僕が甘党だと知った上でのチョコレートケーキだった。麻美が自分の口を指して教えてくれる、その仕草が可愛らしい。

「ホワイトチョコって珍しいよね」

「北海道にいた頃に練習したんです」

「そうか、高校は北海道だったんだ」

「ねぇ、先輩。私がこっちにいた頃のこと、って覚えてますか、」

「うん。家にいったこともあったよね」

「修学旅行の打ち合わせでしたね。先輩って、あのときからちょっと文学青年はいってて、奈良の自由時間は絶対、志賀直哉の旧居を見に行くんだ、って一人頑張って」

文豪、志賀直哉が代表作の「暗夜行路」を完結させた住まいだ。少なくとも、高校生が喜んで見るような場所じゃなかった。

「恥ずかしいな、そんなこと覚えてたんだ」

「恥ずかしくなんかないですよ。それで私、国文に興味もったんですから」

「そうだったのか。こりゃ、健全な青少年を一人、悪の道に引きずりこんでしまったなぁ。もしかして、民話とかオカルトとか好きなのも、」

「はい、先輩の影響ですよ」

「うわっ、そうなのか・・・僕は昔っからそういう謎めいたのが好きだったけど、人にまで影響するとはなぁ、」

「だから、責任とってくださいよね」

そう言って、麻美は笑う。つられて僕も、また笑った。

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