いつのまにか過ぎ去った桜の季節へ


1. 堤防の桜並木にて、「咲哉」



君は知っているだろうか。

言えなかった言葉はどこへ行ってしまうのか、
自らの役目を果たせなかったそれが、辿る道程を。

僕は君と同じように幾つもの春を経験してきたけれど、
その春は、そんな言葉の行方について
考えさせられるような、春だった。

◆

三月十日。街を吹き抜ける風はまだ寒い。

麻由を再び失い、トモコと別れたあの事件から、もうすぐ二年が過ぎようとしていた。春を間近にした季節は麻由のことを思いださせるけれど、僕のこの二十数度目のバースデイに、彼女はいない。

僕が高校時代に片思いをしていた少女、麻由は、卒業を目前に交通事故で命を落としてしまった。そして一年後の春、僕が大学近くの大樹、悲恋桜の下で出会った少女『麻由』は、桜の精として悲恋桜に呪縛された、あの麻由だったんだ。

「桜の花が咲くとき、私のことを少しでも思い出して下さい。あなたと一緒に思い出作りをした『麻由』のことを」

春雷轟く雨の夜、互いに想いを告げあった僕らは、ほんとうは両想いだったということを知った。けれども、彼女を悲恋桜に呪縛していたのは、愛する人と想いを遂げることなく死んだ女たちの呪い。だから僕らの告白は麻由の呪縛がなくなることをも意味していた。想いさえ遂げられれば、桜の呪いは解ける。だから、彼女は桜から解放されて、どこか僕の知らない遠い世界へ旅立とうとしていた。

「私、あなたを愛してる。だけど、もう二度と会うことは出来ないと思います。だから・・・どうか、麻美のことを、」

冷たい風が吹いて、悲恋桜が激しく花を散らすとともに、麻由の姿はかき消えてしまった。全ての言葉を言い終えることなく、ただ宙を舞う花びらだけが残された、その二度目の別れ。

麻由は生前、どうやら妹の麻美が僕のことを好きだと知っていたから、自分は身を引こうと思っていたらしい。けれども麻由を好きな僕が、死んだ彼女の代わりにその妹と付き合うなんてことは、とても考えられなかった。

それから一年が過ぎ、麻美が同じ大学に入学してきてからまたもう一年が過ぎた。昨日の電話の約束で、今日は麻美が家に来る予定だったけれど、朝、家を出た僕は、彼女を避けるように当てもなく街をさまよっていた。



気がつくと、僕はいつもの桜並木の下を歩いていた。もちろん花はまだ咲いていない。花のない悲恋桜は麻由のいない淋しさを募らせるばかりだから、この季節、あの樹に近づくことはためらわれた。それでも彼女の気配をなにか感じていたくて、この堤防沿いの道に桜の面影を求めに来てしまった僕は、どうしようもない矛盾を抱えている。

ふと視線を感じて桜から目を離すと、向こうの板塀の家の前に立つ少年が、僕のことをじっと見つめていた。中学一二年生だろうか。制服は着てないけれど今時めずらしい半ズボンで、焦げ茶色のジャンパーから伸びる脚は成長期の少年らしいしなやかさだ。僕にもあんな頃があっただろうか、でも学校サボリはしなかったな、などと考えていると、その少年は僕に突然声をかけてきた。

「ねぇ、知ってる、桜の樹の下には死体が埋まってるんだよ」

「梶井基次郎だろう、」

それは、昭和初頭の短篇『桜の樹の下には』の一節だった。僕は国文科だから反射的に答えたのでもあったけれど、少年の目はなぜだかとても挑戦的にみえたので、僕はちょっとムキにもなっていた。

「違うよ、」

「嘘つけ」

「だって、桜の樹の下には『彼女』が埋まってるんでしょう。だから桜の花はあんなに見事に咲くんだよ」

・・・桜の樹の下に埋まる死体の『彼女』。僕の思い当たる『彼女』は一人しかいない。

「・・・君は一体、誰なんだ、」

「僕は咲哉。それじゃ、また会いましょう、お兄さん」

最後の一言は、まるで『麻由』が言うような感じで、そう言い残して彼はどこかへ走り去ってしまった。

少年のいた跡には強い川風が巻いて、古びた板塀を鳴らしていた。けれども、その場所に立ち尽くしたままの僕の体はきっと、風よりも枯れた木板の音よりも、寒く震えていた。

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