森林光年


夜空を見上げれば、数億の約束。
光の速さでつながれた、
過去と未来の数だけの。


最終章. 天野 美汐



夜の森に一人でいると、
とても神聖な気持ちになれた。
たとえどれほど街に近い場所でも
原始林の声が聞こえるように思うのは、
ひとりぼっちの心が
時の向こう側にまで何かを求めているから。

「足元に気をつけろな」

二人で登る山道は、一人よりも静かだ。
木々のとり行う厳粛な儀式のような声も、
人の気配に紛れて、遠く、かすかになってしまう。

相沢さんが私の手を引くと、
天野美汐の体はそれについてゆく。
私は意識だけで森の囁きを聞こうとしたけれど、
どうしても上手くゆかなかった。

その代わり、さっきまでの
暖かい光の部屋での出来事を思い出す。
それは、クリスマスのような誕生日だった。
相沢さんの家で、
秋子さんのつくったいちご一杯のケーキと
名雪さんの笑顔に祝われて、
私は16の誕生日を迎えた。

歌を唄った。
両親ともにいつも忙しかったから、
慣れてしまった独りの食事風景に、
久しぶりに明かりが点されたみたいだった。

明かりは、名雪さんだ。
真琴を失った相沢さんが、
私との約束のためにずっと強くあることができたのは、
名雪さんに守られていたからなのだ。

たわいもない学校の話をした。
私の場合、それは必然、恭子の話だったけれど、
こんなとき何か話せることのあるのが
それだけでとても嬉しくて、
自然な笑みの生まれるのが
自分でもはっきりと分かった。

「美汐ちゃんって可愛いねっ」

名雪さんにそう言われて、私の顔が赤くなる。

「ああ、そうだな」

いつものように相沢さんが否定しないから、
なおさらだった。

「・・・ほんとに、そうだ。今年の冬のはじめには、
自分がどんな顔をしていたか覚えてるか?」

恭子も、この冬のはじめ、
街に立つ私に声をかけてきたのだった。
そのとき私は一体どんな顔をしていたというのだろう。

だまってしまう私を見ると
相沢さんは責めるふうではなく
ただ静かに微笑んで、私を物見の丘へと誘った。
そうしてまた、二人きりで出てゆく私たちを、
名雪さんならどんな顔で見送るのだろう。

「暗いんだから、ちゃんと送ってあげるんだよ」

玄関先に立つ名雪さんは
結局、最後まで笑顔だった。

このとき自分が何を期待していたのかということを
思い返した私は、どうしようもなく辛くなって、
このまま一人になってしまいたいと思ったのだ。



木々の天蓋が途切れたら、そこは物見の丘の頂上で、
雲は晴れ、風が吹けば降る星に足元の草がなびいている。

「ここなら、天野とゆっくり話ができると思ってさ」

「どうしてですか」

「物語るには相応の舞台が必要だろう。
夜とか、森とか、星とかは、
なんとなく人の気持ちを神聖にさせると思わないか」

「そうですね」

私の返事には少し怒気が混じっていたかもしれない。
いつも一人でこの丘を訪れるときのように
夜の森の雰囲気に融けこめずにいたことの、
やつ当たりめいていて嫌だった。
相沢さんと一緒にいることの嬉しさと、
一人でいられない不満とが同居している私は悪い子だ。

遠くに見える街明かりをしばらく二人で眺めていると、
小さな吐息とともに
相沢さんの肩から力の抜けるのが分かった。
私はようやくにして、相沢さんがこれまでひどく
気を張りつめていたことを知った。

私のことが重荷だったからなのか、
私に対して真剣でいてくれているからなのか、
そのときの私はまだ分からないでいたけれど。

「綺麗な話が一つある。
夜に見える星の数と、
その土地に立つ木の数は同じだってな。
だから街では星が見えないし、
キャンプファイアの森は、満天の星空なんだ」

「相沢さんって、そんなにロマンチストでしたっけ」

「俺も、かつて夢を見たから。一匹の狐の物語を、な」

「・・・でも、それではいつか、地球上の森がなくなる時、
星もなくなってしまうんですね」

目頭が熱くなった。
綺麗なものはいつも儚いのだ。
狐たちの魔法、星や木々への幻想、
そして私の見る風景すべてが綺麗だと思うと、
涙が止まらなかった。

星と木々とはそれぞれが、
一筋の光の糸で結ばれている。
冬の夜、北の空が白く染まる地方には、
プレヤデスの木があった。
はるか南、海の向こうの大陸には、カノープスの木、
狩猟の森のひときわ高い三本の木は、オリオンの印。
そして名も知れぬ星の一つ一つが
この世界の全ての木々と運命を同じくしていた。

そこには、はるかな約束があった。
十年に一度、世界の木々がいっせいに眠る夜に、
星たちは地球を目指し、それぞれの木の元に還るのだ。
そのとき、約束の木がもう切り倒されていたならば、
星はコンクリートの地面に当たって砕け、木々に殉ずる。

「どうして泣くんだ、」

そう言った相沢さんの目も、なぜだか濡れていた。

「だって、綺麗だから、私。・・・綺麗すぎるから」

綺麗なものに触れたくて、
私はこの冬の街を歩いていた。

「この世界の仕組みなんて私、分からないけど、
あの子たちや相沢さんと出会えたことはきっと奇跡で、
あまりに素敵なファンタジーだったから、
私はもう、この世界を今まで通りに見ることができない。
この世界の全てが綺麗で、冬はどこまでも白くて、
よごれたものも、すぐ白に染まるから、
心の中に綺麗なものが浮かびすぎるから、淋しくて、
それでも綺麗なものが欲しくてたまらなくて、
ほうっておくとどんどん綺麗なものに
なってゆきそうな誕生日を、
どうやって迎えたらいいのか分からなくて・・・」

話すうちに、
私の頭の中はどんどん真っ白になっていった。
もう、名雪さんのことで迷ってはいられなかった。
体が夜の冷気に融けてゆく中、
頬に当たる湿った破片が、私に雪を知らせる。
天にはあいかわらずの星、
星空に降る雪のことも、狐の嫁入りと言うだろうか。
あの子たちが、私に勇気をくれる。


物見の丘に、星が降りてくる中、
私はいつしか相沢さんに抱きとめられ
子供のように泣きじゃくっていた。

「だからきっと俺たちは、
木を切る度に星の夢を見るだろう。
どうして、木のない街の夜が、
夜空の星を映す海のような、寂しい光で一杯なのか、
夢の中で思いだすんだろう。
夢が俺たちに涙をくれる。
愛しさが、触れることのできる熱い、涙の形になる。
儚いから綺麗で、綺麗だから儚いものを思うとき
みんなきっとこうしたくなる」

相沢さんが、私を正面から抱きしめ直すと、
互いの目と目が合った。

「一度、知ってしまったら、
語り続けなくちゃならないことがある。
天野にしか見えないものがある。
俺にしか見えないものがある。
俺と天野にしか見えないものがある。
この綺麗なものたちを物語にして、
俺たちがそのお伽噺を伝えなくちゃならない」

「でも、きっと分かってはもらえない」

「それでも語らなくちゃならないと思う。
それが天野にしか見えないものならば。
それはきっと辛いことだから、俺がずっと側に居る。
天野の側で、天野の話を聞く」

不意に、恭子の顔が思い浮かんだ。
変な子の私といつも一緒にいてくれる友達。
理解できなくても一緒にいることができるのは、どうして?

私は冬の街の風景を思い出した。
私はこの街のことをどれだけ知っているだろう。
公園の針葉樹のざわめきが聞こえた。
凍った歩道が靴の裏をくすぐった。
降る雪は、ただ白く、白くと唱えながら
街を覆っていった。
理由や意味など分からなかったけれど、
みんな儚くて、大好きなものたちだった。
そして、ショーウィンドゥに映る私の顔は、
この冬の風景と同じで、
風景の私を相沢さんと恭子が見ていた。

「たった一つ同じ出来事を、
真琴たちのことを共有してるからって
天野のこと、全部分かるなんて思わないけれど、
でも、どんなことでもどこかでつながりあってるから、
俺の分からない天野も
俺の知っている天野とつながっているから。
あのとき天野が俺に声をかけてくれたから
真琴との最後の日々を悔いなく過ごせたことに、
俺は過去とこれからの未来すべての
百万人の天野と約束を交わしたつもりだ」

だからもしかして、私。
つながってしまったなら、分からないけれど分かる、
という矛盾が起こり得るのかもしれない。
それは、約束で始まって約束で終わる
ファンタジーを読み終えた瞬間のような。
むかし、むかし、あるところで交わされた、
約束を信じ続けて創られてゆく未来の中で。

「遠い、約束ですね」

「ああ、これは遠い約束だ。
星が木に、木が星に還るよりも遠い、
どんなに長い物語よりも遠い。
・・・美汐の中の、まだ生まれてない物語だから。
俺はどこまでもそれを聞いていたい」

「いいんですか。まるで愛の告白ですよ」

「・・・俺が真琴から受け取った一番の物語は、
愛しくて仕方のない気持ちがあるってことだった。
だから、ここで。
俺と天野のこと、あいつが見ているここで。
・・・天野、好きだ。ここで結婚式を挙げよう」

約束は何度だって交わされるだろう。
けれど、私にとっては、
きっとこれが一度きりの誓いになる。

「天野、に戻ってる」

「・・・何て呼んだらいい?」

「美汐でいいよ、相沢さん」

「俺のことは名前で呼んでくれないのか」

「早くやりましょう、結婚式」

幾千の星と幾万の夜に誓われた物語の幕を、
私は口づけで開く。

「汝・・・祐一は、私、天野美汐のことを
一生愛し続けますか」

「あ、どさくさで名前呼ぶなんてズルいぞ」

「・・・祐一、」

「OK! 美汐、」


ただ名前を呼び合うだけで

高まってゆく胸の鼓動は

どこまでも遠く続いてゆく

透明な光の信号となって、

年輪のように刻まれる星の軌跡にも似た

これからの確かな日々のモールスを打つ。


返事をしよう、大切なあの人へ。


返事をしよう、もっと強く、抱きしめて。




森林光年 (了)





      あとがき




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