天野美汐の母親は長患いで入退院を繰り返していたため,小学校へ上がるまでの美汐はよく祖母の家に預けられていた.そんな夜,美汐が眠りにつくまで祖母がお話を読み聞かせるようになったのはいつからだったか,二人のお話の時間は日を追うごとに増し,そこにはこの祖母の創作した話も幾らか混ざっていたと思われる.


第一章. はじまりの狐


 ある夕暮れに狐のむすめが迷い込んだのは,青くかすむ,知らない景色を見下ろす丘の中ほどでした.振り返れば茜色の空は遠く秋の影だけを残して,狐のおうちはその真っ暗の,もうどこだか見わけのつかないところにまぎれてしまいました.

 子供の狐は夜遊びをしてはいけない決まりでした.日が落ちてもまだおうちに帰らない子狐は,宵闇に食べられてしまうのだといいます.この狐のむすめは朝からずっと,病気の母狐の薬になる黄色い花を摘んでいたのですが,日が悪かったのでしょう,今晩必要な分が集まらないままに夕暮れを迎えました.それでいつもより少しだけ離れた場所を探そうと一歩踏み出したまでは覚えているのですが,そのあとはいつの間にか,なんの心当たりもない暗がりの世界へ迷い込んでいたのでした.立ち止まるほどに闇は深くなり,子狐ひとり飲み込んでしまうにはもう十分であると思われます.

 狐のむすめがこれまで摘んだ花を胸の前にかき集めると,ようやく必要な数の花びらが揃っていました.

『おかあさん,心配しているだろうな,』

むすめがつぶやいたその上を,すすきの風に揺れる音が通り過ぎてゆきます.それは大きな鳥が地面をかすめて飛ぶように聞こえて,むすめは嘴にかからないようにきゅっと体を丸めました.

 この狐の子供はほんとうの宵闇というものを知りません.日が暮れた後はいつもおうちの中にいて,母狐と今日一日のおはなしをするのです.今日はどこまで遊びに行ったのか,ほんの一歩,薮のトンネルをくぐった先には新しい野原があって,話をするにはこと欠きません.ですが,この日は過ぎた遠出をしてしまいました.おぼろげに思い出されるのは母狐の話に出てくる宵闇のことで,それは夜の野原を覆うほど大きな化け物であったり,あるいは子供の魂を引き抜くという透明な亡霊でした.

 けれども,むすめの迷い込んだその丘は話に聞いていたように恐ろしいばかりではありませんでした.丘のふもとからずっと大小幾つもの不思議な光が瞬いていて,それを人の明かりだとは知らない子供にさえ,狐の夜とは別の理屈があるということを感じることができたのでした.むすめは自分がいつにも増して頼りなく小さいものになったような気がしました.それはおそらく,星の世界が自分と交じり合わないものだと初めて知ったときの,孤独と同じだったでしょう.


 ・・・


「おばあちゃん,わたしは早くお母さんキツネにお花をとどけたいよ,」

布団から顔だけを出した姿の美汐が,待ちきれなくなった様子で,そうお願いをした.

「大丈夫だよ.きっと,届けられるからねぇ.」

 子狐になった気分の美汐は,薄明かりに照らされた天井を見つめて,うん,と頷いた.美汐の母の療養する病院は,祖母の家からは遠いところにあった.この夜の美汐は母に花束を届ける夢を見るだろう.二人はそんな物語めいた毎日を過ごしていた.

「おばあちゃん,それとね.ヨイヤミ,って一体なあに?」



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